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牛鍋のいわれ

牛鍋のいわれ

    

 そもそも、現在のように牛肉が食されるようになったのは開花の時代。明治に変わる少し前のことでした。それ以前は、養生食として用いられる以外は、敬遠する風潮が一般的。仏教の影響も大とされています。

 それでも、居留地に暮らしはじめた異人さんたちを見ていると、西洋のご馳走=牛肉を食し、気発の酒=ビヤ酒がなくては夜も日も明けぬご様子。これを見聞した当時の浜ッ子たちが、何とかして慣れぬ肉食を我がものにしたいと工夫を凝らしたのでした。

―平鍋に牛肉と葱の五分切りをザクザクと入れ、醤油とみりんで作った割り下にてグツグツと煮込む。ほどよく煮えたところを箸でつつき、日頃ひいきの日本酒でやる・・・。

 古来馴染みの鍋料理に、意外や牛肉はぴったりの味でした。牛肉と葱、割り下との相性も絶妙で、思わず膝を打ちたくなるほど。こうして生まれた牛鍋は、横濱発の新しい味として、あっという間に一世を風靡。

「牛は至極高味でごす子。此の肉がひらけちゃァ、牡丹(猪)や紅葉(鹿)は食へやせん」と言い合っては、新しもの好きがこぞって牛鍋処へ通うように。

 その様子は、こんな史記にも著されています。

『文久二年、横濱なる今の住吉町五丁目か入舟町かの入り江の土手に、居酒屋の伊勢熊といふのがあった。

 横濱で初めての牛肉店を開かふと妻に相談すると、「あんな物を商売するくらひなら夫婦別れをして下さい」と、女房は頗る攘夷論者であったのが、仲裁する者も有って取り鎮め、其代わりに一軒の家を二つに仕切り、一方は飯屋として女房が之を受持ち、一方は牛鍋屋として亭主がこれを主管した。時に漸く肉類の味を占めた町内の人々は、ドシドシと此処に集まり、亭主の方が却って千客万来なので、女房も商売には勝てず、遂に我を折り、何時しか中仕切りの羽目も取外して仕舞ったといふことであった』

 こうして、牛鍋を知らぬとは遅れているとばかり、書生が新知識を披露しながら鍋をつつく滑稽な絵図や洒落本までが大流行。

『士農工商、老若男女、賢愚貧富おしなべて、牛肉食わねば開花不進奴』とは、仮名垣魯文作「安愚楽鍋」にうたわれた、牛店雑談の有名な一節です。